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2016年8月15日月曜日

71回目の終戦記念日


   何回目の終戦であろうと、私にとっては毎回、1回目の衝撃と同じなのだ。あの日、玉音放送があるというので、母は私を自分の隣に座らせ、じっとラジオに聞き入っていた。その横顔は凛として、覚悟の顔に見えた。

6年生の私は日本が負けた事だけを理解した。「なんで神風が吹かんかったの??」 私が母に向かって怒って云った。 学校で、日本は窮地に立つと必ず神風が吹いて守られると教え込まれていたからだ。学校の教えは全て国が統括していたから従わなければ国賊として罰せられる。そう云う時代だった。

母は優しく私を引き寄せ、「戦争が終わったから父ちゃんが帰って来なさるよ」とだけ云った。 、、、結局戦死の知らせが来ただけだったが、、、、、。

終戦、いや戦争を境にして、自分の人生が変わった事、人生観が変わった事を意識せざるを得ない。良きにつけても悪しきにつけても。

今は、仏壇の脇に置いてある父母の写真に向かって毎日毎晩語りかけない日は無い。そして、素晴らしい両親の元に生まれた自分を限りなく幸せに思い感謝している。



2016年1月26日火曜日

思い出しても辛く悲しい

  天皇皇后がフイリピンと友好を復活した記念の60年目という事で、フィリピンを訪問された。それにつれて忘れたくても忘れられない、いや、忘れてはいけない思いが噴き出して来た。

私の父は、昭和19年の暮れ、陸軍に所属していながら、軍用船に乗り船舶隊長としてフィリピンに向かったのだった。私はそのとき小学4年だったと思うが、小学生ながらなんで?と思った。海軍と陸軍は喧嘩してるんだろうか?と単純に思ったものだった。

ルソン島のマニラに落ち着いた父たちは、民家に泊まっていたらしい。その家の娘さんが私と同じくらいだという事で父もかわいがっていたらしくその娘さんの絵を手紙に入れて送ってくれたのを覚えている。父からは1週間日おきに手紙が来た。5~6通もらった頃、ばったり手紙が来なくなった。20年の始め頃だった。

そして終戦。母と6人の兄弟は父の帰りを祈らない日は無かった。
ある日、村役場の人が見えた。戦死の公報だった。  6月19日と記されてあった。

あ~。あと2ヶ月で戦争は終わったのに~~~。

母は泣きもしないで神棚に向かい、「私も軍人の妻です。子供たちを立派に育てて参ります」と声に出して誓った事を昨日の事のように覚えている。母が一番つらく、大声で泣きたかったに違いない。いや、隠れて泣いたのかもしれない。

私が大人になり、母も今の私の年になった時、一番上の私に云った。
「今度の戦争は負ける」と父が言い残し、戦死する事を承知しながら戦場に向かったと。ちょっとでも当時の日本の状況が分かっている人達は理解していたのだ。

どんな事があろうとも戦争だけはしてはならない。してはいけない!!




2016年1月13日水曜日

平和への願望


 2016年、明けましておめでとうございます。

新しい事には何であれ気が引き締まるのだが、今年の新年ほど強く
世界の平和を望む気持ちになった事は無い。

平和あってこそ、人は幸せになれるのだから。

私たちの希いは究極しあわせになる事。簡単だけどたったそれだけ
の事なのだ。

その幸せも自分や家族だけでは幸せを感じられないし、決して
幸せではない。世界の、我が国の平和があってこそなのだ。

現世界の、Baaba一人どうしようもない国同士の戦争や争いごとを
どうしたらいいの??

また、自国の身辺でも考えられない事件の報道が多くある。

目出たいはずの新年から胸が痛いのです。どうかどうか、この一年
全世界が平和であってほしい。

考えられない事件が起こらないように。と、願望するのです。