2010年5月28日金曜日

インドネシアを再認識

Women Peace Conferenceの興奮と余韻が残っている翌日、
バリで知り合っていた好青年のご両親が挨拶に来て下さって、
良かったらどこかへ案内しましょうと云って下さり、友と 二人で
喜んでお願いした。

何しろ、ともえさんがいないとインドネシア語が理解出来ない。
ま、ともえさんには何時も何もかも頼りっぱなしだけど、、、。
どんな所が?ということで、ジャカルタの歴史がちょっとでも
分るような所を見たいと通訳してもらうと、古い町並みを車で
回りながら、一つ一つ説明して下さるのだけど、私が非常に
感動したのは、運転しながら話をされる、お父さんの横顔の
何と誇らしそうな表情だった。

そう云えば、お父さんはスカルノの独立記念の塔を中心にして
案内して下さり、あちこちに立っているモニュメントを、これ又
誇らしく説明して下さった。
「あれは、スカルノと農民の銅像です。独立を下で支えたのも
農民達、庶民達です!」云われるではないか。
まあ、言い方はわるいが、その辺の何処にでも居る風の小父さん
なのだ。
私は心底感動した。この国インドネシアへの愛国心と誇り。
そして、生き抜こうとする底力。
二年前、インドネシアの地を踏んだ時感じた、いい加減さの底に
隠されたマグマのような熱気はこれだったのだ!!
私はこの日からはっきりとインドネシアへの「気持」が変わった。
認識を新たにした。前日の講演会も含めてである。
祖国愛は有る!でも今住んでいるこの国にも、もっと感謝と愛の
気持を持たなければ。と。

今、私の中でも微かなマグマが起こりつつある。

                                                     

2010年5月20日木曜日

カルティニの女性解放の精神と運動が脈々と継承されていた

 
バリの一番の友ともえさんに誘われてジャカルタに行って来た。インドネシアの有名な指導者が見えると云うのも興味を惹いた。

会場には、Women Peace Conference の文字が大きく掲げられている。

インドネシア在住の各国の女性達の盛装も目を楽しませる。あ、よかったわ私も服装にちょっと気を使って来たし。

最初に竹の楽器演奏が始まる。一つの楽器で一つの音しか出来ない、「集合の音」だそうで、そのアンクロン演奏は、女性の集合も心を一つすれば、を予感させる。

イブ リンダの演説が始まった。インドネシアでは3人しか居ない女性の現職大臣とか。これからは女性の時代です。女性がが自覚を持って生きるべきだ、そこから良い生活、革命が始まるのですと訴えられた。

二人目の方の演説身振りは、これ又すごい。全部インドネシア語だから、詳細は分らないが、「皆さん、今日、家を出る時電気を消して来ましたか〜」と、第一声。

デウイ モティックと云うムスリムの方で、外交関係、文筆活動と幅広く女性啓蒙運動に情熱的に活躍しているイスラムの指導者だそうである。

エコの始めは、先ず、必要ないときは電気を切る事から、と、易しい話から始まりインドネシアの豊富な資源に触れ、でも、資源は枯渇する事、一人一人の、私達女性から、生きる事に意識を持とうと、エコについても力強く話された。

次に、去年の暮れに亡くなられた元大統領ワヒドさんのお嬢さんの話があり、この方も、全ての始まりは女性からと云う自覚を持ちましょう。と、優しい声で演説された。

次の方の話にも感激した。マルタティラールという、女性実業家。現在5000人の従業員が居ると云う。
「私は、普通の平凡な家庭に生まれ、仕事を始めたときは一人でした。その内二人になり三人になり、と、いつの間にか、こうなりました。」と。

この方も、インドネシアの資源を生かした薬草から化粧品やスパを始められ、いつの間にか何千人と云う社員を抱えながら、42歳で初めての子供を産み、次に46歳!で二人目の子供を産み、最初の時から、まわりで反対され、陰口を云われたそうだが、そのなかで、家庭と仕事を立派に両立させて来られた本当にあっぱれな方である。 さぞ、勇ましく男勝りの方だろうと彼女を知らない人は思うかも知れないが、声が優しくとても女らしい、可愛い方である事に驚いた。

そして最後に元大統領ワヒド夫人のお話があった。私は、国民的英雄の称号を受け、今も語り継がれている女性解放運動の革命的指導者カルティニの熱い血が、脈々と継承されている事に、胸を熱くしたのだった。

そうして、多いなる感銘の中で幕が下りたのだった。
                                           

2010年5月13日木曜日

おいしい酒とおいしい料理は元気が出る

おいしい酒とおいしい料理は元気が出る

食べて元気出さにゃーと思ってる所へ、
息子が、メール復活の方法を暫定的に
作った新しいアドレスに一所懸命にメール
してくれる。
が、何しろ、パソコンをワープロ代わり
ぐらいしか使えない私には、鳩が豆鉄砲を
食らったような、ネコに小判なのだ。

幸せな事に、バリに来てから沢山友達が
出来た。毎日のように声をかけてくれる。
午後、お茶如何〜と電話がある。
勿論、おちゃけ、お酒に決まってる。
ちょっと、やることがあるにはあるんだけど、
断らないんだよねー。翌晩、別な友達から電話がある。

「美味しいワインがあるのよ〜」  断われるわけないじゃ〜ん。
そのワイン持って来た人、彼女の友達で、世界中あちこち仕事で
飛び回ってるとかで、フランスワイン2003年ものとアルジェリアのもの!!

彼女の旦那様コマンさんが焼いてくれた、こちらで云うところのサティと、
一晩で新しく友達になった彼がワインと一緒に持って来てくれたチーズに
オリーブの塩漬け。 もう、たまりませんよねっ!!

これで元気にならなかったら罰が当たると云うもの。
は〜い、balibaba元気ですよ〜。 次なる目標に向かってGOよっ。
                            

2010年5月6日木曜日

記憶喪失人間になった

インドネシア学校に行っても、英語教室に通っても、何一つ覚えられないのは、これはもう、年のせいだし、そう思えば腹立たしいのも治まり、言い訳も立つが、あまりにもネットに頼りすぎた! 現代のモンスターを信じすぎた!!
                                  
単に、自分のミスでメールのデータが突然消えてしまったのだけれど、困るのなんの、困りまくり。インターネットに裏切られたかのような錯覚に陥り、まるで、記憶喪失人間になってしまったかのよう。
昔のように、手紙は全て手書き、ちょっとした文も原稿用紙を用いていた時の方が良かったかなあーと、ぼんやりとバリの空を見上げる。
                                        
インターネットについては、多分私は人様の何万分の一も使ってないだろうし、使えもしない。 だからこんな状態になってしまうと、手も足も出ない。唯ひたすら5月末にバリに来る娘を待っているしか無いのだ。
           
持って来た本も借りた本も(11冊)全部読んでしまい、また新しく借りて来る気もしないし、人とのつながりが断たれた思いで参ってしまった。
               
そうだわ。手書きしてた昔を懐かしむなら、戦後、食料が無かった時代、母が作って食べさせてくれた野菜料理でも手がけてみるかっ。バリで美味しいのは野菜と果物だけだって、誰かが云ってたものね。早く記憶喪失病から脱却しなきゃあね。
                                     
                           
                                             
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