2016年8月19日金曜日

娘夫妻と食事




娘の旦那、つまり私の長女の婿殿は、よく食事に誘ってくれる。

今回は、大山駅の近くにあるうなぎ屋でご馳走になった。

私にとって嬉しいのは、ご馳走もさることながら、

家族で食事をするって事が何よりも嬉しい事なんですよ。  

美味しかったわあ。ごちそうさま。



2016年8月15日月曜日

71回目の終戦記念日


   何回目の終戦であろうと、私にとっては毎回、1回目の衝撃と同じなのだ。あの日、玉音放送があるというので、母は私を自分の隣に座らせ、じっとラジオに聞き入っていた。その横顔は凛として、覚悟の顔に見えた。

6年生の私は日本が負けた事だけを理解した。「なんで神風が吹かんかったの??」 私が母に向かって怒って云った。 学校で、日本は窮地に立つと必ず神風が吹いて守られると教え込まれていたからだ。学校の教えは全て国が統括していたから従わなければ国賊として罰せられる。そう云う時代だった。

母は優しく私を引き寄せ、「戦争が終わったから父ちゃんが帰って来なさるよ」とだけ云った。 、、、結局戦死の知らせが来ただけだったが、、、、、。

終戦、いや戦争を境にして、自分の人生が変わった事、人生観が変わった事を意識せざるを得ない。良きにつけても悪しきにつけても。

今は、仏壇の脇に置いてある父母の写真に向かって毎日毎晩語りかけない日は無い。そして、素晴らしい両親の元に生まれた自分を限りなく幸せに思い感謝している。



2016年8月11日木曜日

迎えてくれた花達



               花達が笑ってるように見えました。




2016年8月9日火曜日

Hijiki先生の事


何故Hjjikiかという事について彼女達美術部のメンバーの云い分が面白いので引用させていただく。

富士宮高校美術部に在籍していた70年代半ば頃、高橋秀浩という僧籍も持つ美術教師が赴任してきました。 実家はお寺ですが稀に見るユニークな教師でした。

ジーンズにロンドンブーツばりのぽっくりサンダル。
ラベンダー色のベストにクリーム色のYシャツといういでたち。
そしてシャツの第2ボタン迄外した胸元にはヒジキのような胸毛が覗いていました。

高橋先生の魅力は、その風貌にとどまらず,僧侶とも思えぬサバけた性格と何よりも的確な指導力でした。そんな先生を慕い、放課後の美術室は賑やかで、運動部並みに毎日作品の制作に励んだものでした。

私たちは尊敬と親愛の情を込めて、その特徴的な胸毛にちなんでいつの間にか『ヒジキ』とあだ名を付けて呼ぶようになりました。絵の具がこびりついた制服に、苦しいほどの夢を包んでいたあの頃。

魔法の言葉 『ひ、じ、き』

高橋先生の定年を知ってわきあがった「展覧会をやろうよ」の声。

その名称にHIJIKIを冠する事を快諾して下さった先生。こうして『HIJIKI展』が生まれたのです。2008年に始まった展覧会。それが今年で5回目なのです

と。


梅雨あけの富士




久しぶりに我が家に帰ったが、帰郷3日目に富士山がようやく姿を見せてくれた。梅雨時だもの仕方ないよね。

富士山に会えたのも嬉しかったが、娘の高校時代の友達、私から見ると娘同様の彼女達に会えたのも嬉しかった。富士宮高校時代の美術の恩師、通称HIJIKI先生を記念して、HIJIKI展が開催されるので娘は富士宮に行ったのだったが、私は色々雑用があっての事だった。2008年から開催されていて今年が5回目だという。

一応、娘が会長となってるらしいが、娘は名ばかりの会長で、すべて動いて取り仕切ってくれている(下さっている)のは美術部OGの皆さんだと娘は云っている。特に副会長文江さんには多大な迷惑をかけていると云っていた。

その文江ちゃんが車で我が家に送って下さり、しばし雑談。も~う、本当に楽しかった。高校時代から私も文江ちゃんが大好きだったから。おまけに、農園を経営しているお兄さんが丹誠込めて作られた富士宮名物の落花生をいただいた。


数日して東京に帰った私は真っ先にベランダの花達を見た。良かった良かった。花達は変わらず元気な笑顔を見せて迎えてくれた。ペット達も居なくなり、今では植木鉢の草花同様の花達が私のペット、子供達なんですよ。