2008年11月21日金曜日

坂本九ちゃんの歌を思い出した

”上を向いて歩こう” に申し訳ないけど、下を見て歩かないとえらいことになるよ、このバリ島クタの街は。ホント、”下を向いて歩こう”に替えて歌わなきゃ。
日本から来た全部の人が云うけど、バリ島の下水、ゴミ、道路。本当にどうにかならないものかしら。

バリ日本人会の有志が、実際にこの問題に取り組み始めて、日にちを決めて、地道に活動して下さってるが、道路までは!?
商店街、というより道沿いに並んでいる様々な店を見乍ら歩くと、下水道、(といっても流れていない)に蓋をしているセメントが、壊れたり欠けたりしていて、落っこちそうになる。それも、20mも歩くと、また、それなのよ。

ああ、バリかあ。いいなあ。風光明媚。一年中夏。という、他の国に無い素晴らしい所だよなあ。とも、思い直し乍ら、ゆっくり歩いていると、今度はもっと胸の痛くなる事が待っている。 見るからに貧しい様子の子供が走りよって来る。手を差し出し乍ら。 どうしても無視できない。私も2つにわけると貧乏人だが、とりあえず腹は減らしてない。バッグから小銭を取り出して上げようとすると、たちまち数人の子供たちに取り囲まれる。

また、余計な事を考えてふさぎ込んでしまう。損な性分だよね。いえ、どうにかなれば、ふさぎ込むなんて無いのよ。

チャングウの友達の家に遊びに行った。おお、どぶ川の水が流れてるよ~。稲穂の出る前の田んぼは緑濃く、吹く風もさわやか。あーよかった。田舎に行けば、まだこんな風景もあるのね。

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2008年11月14日金曜日

日本の秋とバリのあき

赤道直下のバリには秋は無い。あるのは乾季と雨期だけ。時差だけで云うと1時間しか違わないのに、と、思う。

雨期の終わり頃と、雨期のはじめは、真夏よりも蒸し暑い。真夏と思われる6、7、8月は、太陽ギラギラなのに空気が乾いていて、むしろ気持よく、バリで一番の気候だといわれているのも頷ける。

こちらに来たのが5月中旬だったから、やはり南国だもん蒸し暑いわと思ったが、8月は本当に気持よかった。

11月に入り、蒸し暑い日が続いていて、時たま夜半の大雨に驚いたりしているが、朝になるとからりと晴れて蒸し暑い日が続いている。雨期の予兆には違いないが、本格的な雨期には入ってないのかな? 未体験の季節を味わえると思うとちょっとわくわく。しょうがない婆さんだわね。まあ、balibabaだし。

で~も、羨ましいなあ。日本では秋のG1シリーズ突入。ええ、勿論、わたしの愛しのサラブレットたちの競争よ。ああ、走る姿が見たいなあ。

2008年11月8日土曜日

インドネシア日本博覧会2008 (共催日本経済新聞社、コンパス紙)

アメリカ史上初の黒人大統領の誕生に、国民の大半が喜び、感激している姿が放映されて、私迄もが嬉しくなる。「白人でもなく黒人でもなく宗教が違えど、イデオロギーが違えど、全て一つのアメリカだ!」と叫んだ彼に、希望と共感を持ち、チェンジという強い言葉を信じたのだ。英知と若さに溢れたオバマさんに私も期待したい。

そのオバマさん、少年時代の4年間、インドネシアのジャカルタで過ごしたと云う事は初めて知ったが、彼のグローバルな考え方も、その生い立ちから最高学府で勉強する迄に培われたのかもしれない。

1日に開幕した日イ博覧会2008は、ジャカルタ新聞で毎日報道され る。日本の新聞でも報道されていると思うが、こちらほど詳しくは載らないのではと思い、日本の皆さんに少し伝えたいと思う。

1日には日イ協会会長の福田康夫前首相が来て演説し、日イ友好の記念すべき時に訪問出来た喜びと、友好関係を更に深める契機となる事を期待すると。

コンパス紙のヤコブ理事長の、日本国がインドネシアを占領した時期がある一方で、日本軍はインドネシアの独立を促進する役割を果したのですとの演説は実に興味深い。また、各企業もエネルギー問題、農作物、福祉等、多方面にわたり活力と夢いっぱいの近未来構想を提案してる記事でいっぱい。

その他、会場内では、伝統文化、食文化、アニメや、日本の祭り、石川の炎太鼓、秋田竿燈、ジャカルタ神輿の他、最大の目玉、3Dハイ ビジョンシアターでは、エンジョイインジャパンと銘打ち、銀座原宿の街や日本の雪景色、紅葉、築地市場にレインボウブリッジや新幹線も。この、家族で楽しめる3D映像はNHKメディアテクノロジー とか。

盛りだくさんのイベントを、日替わりで楽しめるようになっているとのことで、あ~あ、行ってみたかったなあ。

2008年11月4日火曜日

続 日本とインドネシア

1945年8月15日、日本は全面降伏し終戦となった。そして、8月17日がインドネシアの独立記念日となるのだが、350年間にわたるオランダの支配からインドネシア独自の国を作ろうと云う、民族独立運動は、1900年初頭からあった。

中でも、民族の自覚が不可欠であるとの意識のもと、多くのオランダ人を始め、世界の知識人に当てた書簡集を発刊したのが当時のオランダ植民地政庁教育文化省長官だから、面白い。

この書簡こそ、インドネシア人を覚醒させようとの願いに立ち上がった、カルティニと云う女性が書いたものだった。わずか25歳でなくなっているが、インドネシア政府は彼女を国家英雄の一人として顕彰し、カルティニ記念日を設けている。

尚、ジャカルタのインドネシア経済企画庁広場前には彼女の像が建っているが、日本の友好団体の寄付に依るものというのも日イ関係を物語っていると思う。

それより、もっと驚くのは、インドネシア独立宣言書が書かれたのは、日本海軍のジャカルタの責任者であった前田武官邸だったのだ。スカルノとハッタは、長年同士である民族運動の指導者スバルジョが前田武官と親しい事を思い出し、3人は前田邸に向かう。まだまだオランダの目が光っていたのであろう。

そして、16日、独立宣言書の原稿が書き上げられ、翌17日、『我々インドネシア人は、ここに、独立を宣言する』から始まるスカルノの第一声が放たれたのであった。

2008年11月3日月曜日

日本とインドネシア

今年は、日イ国交樹立50周年に当たり、日本文化振興財団と日本文化庁の後援によって、能、狂言の公演や、その他、多くの催し物を只で楽しめて、ちょうどこの年にバリ島に来た私は何かと得した気分になっている。

その、最大のイベントが、「インドネシア日本博覧会」であろう。これは、首都ジャカルタで開催されるので、入場料は無料でも航空券と宿泊代までは出して貰えないので、、あっはっは、、。 11月1日から9日迄だそうだけど、行けそうにもないのでまた、1日遅れのジャカルタ新聞を見る事にしよう。

バリでの最後のイベントが12月の山本寛斎演出の出し物らしい。関係者は着々と準備されてるみたい。私も、見に行こうと楽しみにしている。多分、超ド派手?1年の締めくくりとしてはいいんじゃない?と、期待してます。

ここのところ、夜半にスコールがあり、これが雨期入りの前兆と云う事でしょうか。朝になるといつものように太陽が眩しいが。「気象地理物理庁」の発表だと、インド洋で低気圧が発達した影響と、海面の温度の上昇で豪雨が発生した。とある。本格的な雨期入りは11月中旬で、ピークは12月から2月位迄らしい。どんな気分になるのか、これも、待っている今日この頃なんですわ。

2008年10月16日木曜日

Charlie Sudah Jadi Bintang

*


Charlie Sudah Jadi Bintang

チャーリーは、星になりました。
昨日、10月15日、朝8時30分
私の部屋、ドアを開けると 目の前に立っている
プルメリアの大木の下に眠っています。


*


2008年10月11日土曜日

うちのクチン君チャーリーの事



 バリに来てから、ご機嫌はいいのに食べる量が少なくて、日に日に痩せて行くのが、どうにも心配なのだが、先ず、えさが合わない、年のせい、(18才なので)ストレス?等、私もあれこれ考えては食物の工夫をしてるんだけど、やはり駄目なのよ。

娘たちが来た時、お土産にと、チャーリーの好きだった物を持って来てくれた時は喜んだようだったが、それもだんだん食べなくなって、先週の土曜日は、好きな寝場所から出て来ない。呼んでも返事しない。 いつもは、呼べば「にゃん」と云って側に来るのに、、。抱きかかえた途端、医者だーと思ってホテルのフロントに頼みに行った時の私は不覚にも半泣き顔、涙が出てしまった。

フロントのスタッフは勿論、オーナーまで皆で心配して下さり、獣医さんに連絡して下さった。だが、何せ真夜中の12時。 明日の朝一番に往診するからと約束してもらった。日曜日だったが、インドネシア人の獣医さんは、気さくな人で、とりあえずビタミンと通便の注射をし、通じが良くなる薬の処方箋を書いて下さった。

前の晩考えた事と云えば、往診してもらうのは有り難いけど、一体、どれだけ請求されるかと心配したのは正直な話。それが、あれ?こんなんでいいんですか?と云う金額で大助かり。それで、と云う訳じゃないけど、また明日往診してもらうことにしてるの。

半分は、覚悟も必要かも?!と、自分に言い聞かせたりしながら、いや、絶対、元気になってもらわなくては!!と、何やかや、忙しく過ごしている中での目下一番の心配事なんです。

明日の夜は、日本人会の盆踊り大会で、バリに居て、日本人会に入って いるメンバーにとっては、大きな行事なのよ。私も見物に行く事にしてる。 みんな、浴衣を着るんだって。

2008年10月9日木曜日

最近の身辺事情

この2週間を振り返ると、先ず、2週間前に、娘たち夫婦とお母さん3人でバリに来られた事。3泊4日じゃ何にも出来ないわよ。ホント、ばたばた。
その間に、ボーカルの W.Hiroko ちゃんから、「今バリに居ますが、お茶しませんか?」と誘いのメールが来た。嬉しかったけど、しょうがない、おことわり、というわけ。

娘夫婦とお母様と私と4人で、バリのディナーらしきものは2度食べたけど。どうせ来てくれるなら2週間くらいはねえ。私も便乗して遊びたかったわよ。 でも、本当に有り難かった。

こちらで1番仲良くしている友達が、お子さんを連れて東京の病院へ行くついでに、私のジャズバー(今は息子夫婦がやっている)に行ってみたいと云って下さるので、しかも、予定してる日がお子さんの誕生日だと いうわけで、しかるべき用意をしておくよう、今度は店とメールのやりとり。まあ、それは、しのぶ(現在のママ)に任せておけばOKなんだけどさあ。老婆心と云うやつですよ。

そこへ突然、突然ですよ! しのぶの妹いずみチャンからのメールで、昨日からバリに来てるからママに会いたいって! まあ、これも超うれしかったから、会ってご飯食べて、翌日ヌサドアの海で遊んで、、、ひや~嬉しい悲鳴と云うか、、

でも私だって、偉いんだぞー って、娘たちが来てる間も何やかんやあっても、インドネシア語学校と、英語の家庭教師は断らずに頑張ったからね。身に付くかどうかは、、?? ちと、悲しいと云う段階。

その後が大変!! うちのチャーリーが、、、  次回へ

2008年9月28日日曜日

壮観の民族大移動(9月27日のジャカルタ新聞)

1日遅れで配達される新聞によると、上記のような見出しで、また1面トップに載っている。イスラム暦の9月でラマダンが終わり10月に当たる第1日がレバランとなる。陰暦に従い、毎年10日ずつ早くなる訳で、今年は1日となる。

祝日は、1日と2日だが、政府が決めた有給休暇の奨励日が、29日から始まり、多くのインドネシア人は、2週間の休暇を取り、故郷に帰って、1日と2日のお祈りをすませたあと、新調したイスラム服を着て親戚や近所、友人回りをし、その後自身の休暇に当てるのだと云う。

世界で15億人とも云われるイスラム教徒の内、約2億人とも云われるインドネシア人の、1600万人程の数が移動するわけだから、なるほど、民族大移動となる訳だ。

私個人として、今、ホテルのオーナーが好意でキッチンを付けたり色々と改装して下さっているが、いつもなら、ゆったりのんびり仕事するインドネシア人が、目の色を変えて、仕事している。明日の帰国に間に合わせようとして必死なのだ。こちらは、得した気分だが、本当にインドネシアは面白いわ。

2008年9月26日金曜日

インドネシアの大行事、ラマダンとレバラン

9月2日のジャカルタ新聞(日本語版)を見て吃驚したのは、1日から始まったラマダンの記事。”1面トップ”に載っている。 単なる宗教行事ではないのね。ラマダンは。 ブカ、プアサ(1日間の断食明け)を祝う記事と写真にうめられている。

テーブルの上に料理を山積みして、ブカプアサを告げる放送が流れると一斉に水を口に運んでのどを潤してから、食事を始めた。と、ある。それだけでも異国に来た感じなのに、それが1ヶ月間続くのだそうだ。日の出と共に断食が始まり、日の入りで終わる。その間、水も口にしてはいけない。生活、勿論、仕事も普通どうりやる。

ついこの間、面白かった?のは、ラマダン期間中、友人たちと食事をしたのだが、その中にイスラム教の友人が居る事に気がつき、「あ、ごめん」と謝ったら、その友人、すまして食べている。『今、生理中だからいい の』不浄の人だから、神の前にひざまずけないんだって。

レバランでジャワに帰るんでしょ?と聞くと、勿論よ、レバランに帰らない嫁は、親戚中ののけ者になるわ。

一日目のブカプアサといい、一か月間のラマダン明けの大祭といい、本当に目を丸くする事ばかり。 滞在4か月とは言え、刺激が多すぎますよ。

2008年9月17日水曜日

バリの月

窓から見る月があまりにも美しいので外に出てみる。
わあー、まん丸、、、、、。
今夜十五夜?  そう、そうよ。
そうすると、明日は十六夜ね。 い、ざ、よ、い。

そうだわ。日本を出て4ヶ月。たった4ヶ月しか経ってないのに
もう、長い事、よその国に居るような錯覚に陥っている。

でも、月はこの世に只一つ。
日本で見る月もバリで見る月も、今の、この月なんだ、、、。

急に、思いは日本へ飛ぶ。あの人も同じ月を見てるかしら?

何故か、子供の頃、明日の遠足のごちそうを作りながら、
「見てごらーん、あしたはいい天気じゃよー」とわたしを呼んで
一緒に月を見た母を思い出す。
色んな事を思い出す。色んな事が駆け巡る。だが感傷ではない。
豊かな感情なのだ。

こんな、豊かな、優しい感情が湧き上がるのは、やはり、
バリの月なの?

2008年9月10日水曜日

the alit に住み付きそう

実は9月に入って引っ越しました。クタロイヤルに比べて、ちょっと手狭だけど、ホテル並みのサービスが付いて、家賃も安くして下さった。これは私にとって大きい。何と云ってもオーナーはじめ、スタッフみんないい人たち。

概してバリの人たちは親切でやさしく、笑顔で接してくれるが、alitの人たちの多くが日本語を話せるから大助かり。これも大きい。

豪華で大きなホテルもいいが、長く住もうと思ってる私にとってうれしいのは、そう、隠れ家的というか、古木、大木と常夏の花のなかにある小さなビラは、まさしく隠れ家と云うに相応しい。「バリの田舎風」とうたってあるとうりのプチホテルだ。

最も気に入っているのが朝食。前夜に、明日の朝は何を、何時に食べますか?と、アンケート用紙を持って来る。4種類あって、ミーゴレン、ナシゴレン、パン食2種には2種のオムレツが付いている。飲み物も選べる。そしてデザート付き。

指定した時間に行くと、テーブルセッティングしてあって、顔を見てから調理して、アツアツを出してくれるのよ。パンも!南国の木々や花を眺め、心地よい風に吹かれ乍らのブレックファストは、まさに至福のとき。

私の次の時間が始まりました。

2008年8月27日水曜日

わたしはベジタリアン??

3度の食事で、何を食べるにしろ、肉か魚か、でなければ卵かハムかソーセージ。何にもない時は鰹ぶし。いわゆるおかか。そういった物がなければ食が進まなかった私が、バリに来て3ヶ月、大幅に変わってしまった理由の一つは、なかなかインドネシアのタンパク質類に馴染めないのもあるが、一つ大きな理由は、経済的理由。

何も恥ずかしい事ではない。ちまちま年金生活者(と,ひとくくりに云っておくが)は、毎日の出費を考え考え暮らさなければならない。勿論、羨ましいほどの例外の方もいらっしゃる。

空輸された野菜は高いが、地元の野菜はホントに安い。申し訳ないくらい。それに太陽を一杯浴びて育ってるから旨い。美味しいのよ。それで、バリの野菜たちをあれこれ工夫して料理してるうちにだんだんはまって来て、いつの間にか、肉や魚が無くても美味しく、満足するようになったってわけなんだわ。

目下、一番気に入ってるのが,なす料理。日本風に、味噌あじ。レシピなんて洒落たもの知らんよ。気任せ。 仲良くなったインドネシアの若い女の子にも、大好評だ。ショウガの細きりを最初いためるのがコツかな。 このショウガもまた超安。愛知県とか高知県のものがいいとされていて、いつもソレを買っていたが、買い乍ら高いなあと思っていた事も事実。300円くらいしてたのが、こちらのしょうがは4~50円。余談になったけど、いえ、余談ではないわよね。こちらの野菜の値段はこんなものと云ってるのです。意外や意外、美味し~いのがじゃがいも。

と、ほんの少し紹介したけど、バリの野菜の日本風食べ方や、自分に合うインドネシア風の味を面白がってるうちに、あれ?、私ってベジタリアンだったっけ?と独り言云ってしまった。

2008年8月25日月曜日

我が家のKucing君

水(こちらでは、貧富の差なく水を買います)を届けてくれた小父さんが、チャーリーを見て、よほど驚いた らしく、「Apa ini?」アパイニ?と聞くので、「Kucing」クチン(ねこ)と答えると更に驚き、今度は片言英語でフラムジャパン?と聞きました。黒地にグレイの縞模様のネコは初めて見たのでしょう。

私だって初めてトムにあった時(チャーリーの父親)えっ何これと聞いたもの。20年前の事。まだアメリカンショートヘアが珍しい頃でした。今迄飼っていたネコの中で一番お気に入りのトムの最初の子で、18年も一緒に暮らして来たチャーリーをバリに連れてこない訳にはいきません。

そのチャーリーの事、それが目下一番の心配事。こちらの物をあまり食べてくれなくて、だんだん痩せて 来たのです。検疫のとき成田で量った体重より1.5キロも減ってしまって、背中の骨ゴリゴリなんですよねえ。

それは勿論、色々と工夫しているのよ。まあ、本人も死なない程度には食べるのでしょう。ほんのちょっぴりずつは食べます。それにことの外元気。ご機嫌もよろしいし。そのうち慣れて諦めてバリのネコになってくれるかしらね。

そう云う私もこちらに来て1ヶ月頃、2,5キロも痩せて何だろうって思いましたもの。今は元に戻ってます。うちのクチン君も長生きしてもらって、ギネスブックに載せようって思ってるのよ。はっはっは。

2008年8月16日土曜日

8月15日と8月17日

戦争終結の記念日と、独立記念日とでは、同じ記念日でも天と地ほどの違いだ。

今日15日、日本では、毎年正午12時、1分間の黙祷を慰霊者に向かって捧げる。戦争で父を亡くした私は、今日はテレビを通じて参加した。今迄は、必ず一緒に黙祷をした訳でもなかった。心のどこかに、行事化された空しさを感じたりもしたからだ。

評論家やマスコミはいろいろ言うけれど、「思想やイデオロギーがどうであれ、自身の意思に関係なく戦争の犠牲になった人たちの霊に、二度とこのような戦争はしないと誓い、参拝するのは、私の人間としての気持だ」と、堂々と言い放ち、元旦と8.15には必ず参詣する吾人は、いっそ、気持いい。

バリに来て、初めて知ったインドネシア人が心から喜んで、その日を待ち望んでいる記念日、インドネシア独立記念日のお祭りだ。10日くらい前からインドネシア国旗を家の門に掲げ、或いは軒下に吊るし、うきうきした空気を感じるのだ。
8月17日。日曜と重なるので、18日が学校も役所もその他多くが休みとなる。自国の独立を我が事と等しく喜ぶインドネシア人の純真さに心から喜び、植民地の如何なるものかを知らない私は歴史の重みをずっしりと感じている。